2009年07月22日

夏の闇



開高健の『夏の闇』3回目(ぐらい)を読み終わりました。
開高が第二の処女作と言っているように、この小説は開高の小説の中でも特異な小説です。この小説で開高は初めて自分自身について書いたように思います。

『ベトナム戦記』や『輝ける闇』では開高は事実上の戦場のレポートを、アメリカ人でもベトナム人でもない日本人という立場で描ききりました。そこでは、開高が実際に従軍した体験、リアルな戦場が描かれています。
しかし、ただ戦場の激しさを描いたレポートなら開高以外にもいくつかあります。開高の何が際立っているかというと、戦場のなかで自分の恐怖を直視したことです。
写真家の一ノ瀬泰造なんかは、日記を読んでも死んでもいいというがむしゃらさが伝わってきて、それによって自分の中の恐れを消している感じがします。
しかし、開高はすでに芥川賞という名声ももらった作家です。守りに入ろうと思えばいくらでも守れる作家が、あえて従軍し、そして自分が何をしているのかと問い直すのです。そして、死に直面して生まれる自らの恐怖の大きさを、正確に測りこんで文章にしています。

『夏の闇』は最初から70%はベトナム戦争とは関係のない話です。
しかし、全体を見渡すと主人公がなぜ戦場へ行くのかということを、ベトナムから遠く離れた場所で見つめなおす小説になっています。
しかしそれははっきりした言葉では書かれていません。ただ状況が書かれているだけです。

本質的な意味を失いながらもまともさを取り繕って動こうする世の中や、空虚な人付き合いをバカにしつつも、自分を正当化できない主人公が行き着く場所は戦場でした。
それは文化も文明もない野蛮な国かもしれない。
でも、そこは死と隣り合わせになることで生まれる生の奔出がリアルに感じられる唯一の場所だったのかもしれません。

そんな開高に比べればぼくがこんな平和な時代のベトナムで甘ったるく暮らしているのは冒険でもなんでもないんだなあとつくづく思います。
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2009年07月19日

ストーリーとプロット

突然ですが、小説にはストーリーとプロットというものがあります。

ストーリーというのはあらすじのことで、時間軸に沿って小説内の事実を要約したものです。

プロットというものは、物語ともいわれるもので、ストーリーをある視点から読み解いていったものです。

たとえば・・・夏目漱石の『こころ』
ストーリーはこんな感じです。
先生がKの恋人(静)をうばって結婚し、のちにその話を主人公のわたしが聞き出す」

でも、読みの枠組みを設定して違うプロットを見つけだすこともできます。
たとえばぼくの大学の先生である石原千秋先生は、こんなプロットを見つけだしました。
「私が先生の奥さんを略奪する物語」

ギリシャ神話の「オイディプス王」では息子が父親をそれと知らず殺して、自分の母を娶ってしまいます。さらにその息子も自分の子供に殺されます。繰り返す親殺しの悲劇。その物語構造を「こころ」にもあてはめることができるという話です。

そうしたプロットを「こころ」の読みの枠組みとして持ってきて、小説を読みなおすと小説は細部がまるで変わってきます。

詳しくは石原先生の論文をご参照。
もっとわかりやすく砕いた本を最近書かれたと思うんですが、わからないから自分が知っているこの本で・・・


こういう小説読解の話はコミュニケーション論にもつながっています。


yakobuson.jpg
(有名なヤコブソンのコミュニケーション論の図式)

作文にしても発話にしても、作者と読者とテクストという関係にしてしまって、それがどう作用しているのかをみれば、コミュニケーションの現場で何が起こっているのかを見ることができます。

日本語の会話教育にもこういう理論は活かせるはずですが、すでに頭がなまってうまく考えられません。
ひまになったらそのうち・・・
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2009年06月04日

堕落論

坂口安吾の定番小論です。
国語国文学科卒の僕にとって今更ながらの今更ですが、恥ずかしながら初めて読みました。

授業の空き時間になんとなく眺めました。
このハノイの生活と全く関係ないけど、なんとなく深く感じる安吾の言葉です。

人間。戦争がどんなにすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇志はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸を膨らませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外に人間を救う便利な近道はない。


どんな「愛」だとか「友情」だとか言っても、いつか強い思いは消えてしまう。それは長い人生を振り返ると実感できます。ましてや人間でありすぎる堕落した僕にとっては。
でもね、そうやって堕落することが、「人間が生きる」っていうことなんだよって安吾は教えてくれているんですね。
美しさを求めて二十歳の処女で死ぬか?
特攻隊で消えていくか?
でもそれじゃ救われない。
どちらかというとそれじゃつまらない。
その気持ちはわかります。
だったら堕落してやろう。
醜く生き長らえてみたらどうだろう?

まあ別にたいしてえらそうなことを言っているわけじゃないけど、そういう当たり前っぽいことをフラットな口調で言えるところが安吾のエライところです。

だけど、醜く生き長らえるのも、ただ自分から醜さを求めるのは違うと思います。本気で何かをやって愛したり夢中になったりして、でも死んじゃだめだよ。死ぬくらいなら全部水に流しちゃいなさい。っていう普通にやさしいことを安吾は言いたいんだとおもいます。
解説しすぎてあまりに普通の結論になりましたが、その普通さがまたイイ!



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2009年02月23日

いのちの初夜

意外とこのブログの読書感想文が人気(らしい)なので最近あまり読書していないにもかかわらず、今日無理やり短編小説を読みました。

北条民雄の『いのちの初夜』です。
大学のとき近代文学の演習か何かで読まされた本です。
無理やり読まされたわりにはすばらしい小説で、ついついハノイまで持ってきて再読しました。

さて、省エネのため北条民雄についてウィキペディアから引用します。

北条民雄(ほうじょう たみお、正しい表記は「北條民雄」、1914年9月22日 - 1937年12月5日)は小説家。ハンセン病となり隔離生活を余儀なくされながら、自身の体験に基づく名作『いのちの初夜』などを遺した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/北条民雄


そう、北条民雄の文学はハンセン病文学です。
ハンセン病は今は治療が可能ですが、特効薬がなかった当時は全身がただれる悲惨な病気でした。

文学史においてハンセン病と対極にある病気は結核です。
血を吐いて、顔が白くなって美しく死ぬ。
昔から文学において死の美しさを演出するには結核が一番でした。
(ちなみに北条民雄の同時代の太宰治なんかは『斜陽』で結核を使っています)

でも、ハンセン病はそうきれいにいきません。
どういう状況かは小説を読めばわかりますが、『いのちの初夜』に書かれている描写では、ハンセン病施設は地獄絵図です。
顔が崩れ、眼球がなくなった人や、足が崩れて歩けない人、そういう描写がリアルに書かれています。

ただ、そんな「ハンセン病が大変な病気ですよ」っていうことだけをこの小説は言いたいのではありません。
こんな状況で、こんな病気になっても「生きる」っていうことは、いったい何なのかっていう、単純で普遍的な問いの小説なのです。

ちょっと話が飛びますが、文学とは何かっていう話で、日常的なネタを言語を異化することで文学にするんだっていうロシア・フォルマリズム(だったかな?)みたいな考え方があります。
それとは別に僕は、特殊な状況を描写することで普遍的な問いを抽出するタイプの文学っていうのもあるなと思います。

当然「いのちの初夜」は後者のタイプです。
なので、北条民雄の文章自体は若すぎてうまいとは言えないし、書き方もストレートすぎる感じがします。
しかし、このへたくそなストレートさが訴える、哲学的問いは鋭すぎる問いになっています。
とても短い小説なので、ちょっとでも気が向いたら読んでみてください!



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2009年02月06日

地雷を踏んだらサヨウナラ

日本人の東南アジア青春記としては定番のような本です。が、僕は2年前ぐらいまで知りませんでした。
今2回目を読み返しているところです。
しかしまあ偉そうに紹介してみましょう。

戦場カメラマンの一ノ瀬泰造の日記や手紙を編集した本です。
時は1970年代、ベトナム戦争のただなかで泰造は戦場カメラマンを志します。

ただし、かれが目指したのはカンボジアのアンコールワットでした。
軍事上重要性のないアンコールワットは、報道関係者から注目されていませんでしたが、泰造はアンコールワットの写真をクメールルージュ(ポルポト派)と一緒に撮ればスクープになると思って、シェムリアップでずっとチャンスをうかがいます。

この本なにがすごいかというと、やっぱりタイトル通り、『地雷を踏んだらサヨウナラ』っていう覚悟がそのまんまあらわれているところです。
カンボジア人がみんな「危ないからやめとけー」といっても泰造は聞かずにアンコールワットに突っ走ろうとします。
しかも、その当時アンコールワットの写真がどれほどの価値があるものなのかもいまいち微妙なのです。
こうなると意地でしかないですね。

こんな生と死のはざまにいながらも、泰造の日記はとってもコミカルです。日記は途中で終わっていますが、その後泰造がクメールルージュにつかまって殺されたことなど信じられないような、本当に明るい日記です。

おもしろいエピソードがあります。
泰造がカンボジア政府軍に従軍した時の話です。
政府軍兵士も共産軍兵士も昼ごはんの時間になると暗黙の了解で攻撃をピタッとやめるそうです。もちろんご飯を食べて昼寝をしたら殺し合いは再開します。
その昼ごはんの時間に政府軍兵士が遠くに見える共産軍兵士に言いました。
「こっちでメシ食いにこいや」
「いや、おめーこそこっちこいや。ウィスキーもあるで」
「ヘネシーウィスキーならいくぞ」
「いや、安いカンボジアンウィスキーだ」
で、両軍とも大爆笑。

ここのくだりが、小林秀雄が『無常ということ』で書いていた『平家物語』の、無邪気な戦争の笑いを思い出します。
戦争なんて実際はそんな楽しいものではないんでしょうが、それをどう感じるか、どう表現するかでどんな世界も変わっていくんじゃないでしょうか。
そういう意味でもこの泰造の日記は秀逸です。
単なる甘っちょろいヒューマニズムから戦争を反対しようとしているわけではなく、泰造はよくも悪くも自分の目で世界を見つめているのです。
人生を笑い飛ばし、世界を笑い飛ばそうとする彼の気概には、アウトローの僕としては少なからず共感せざるを得ません。

PS.開高健が寄せている序文もめちゃめちゃかっこいいので開高ファンも必読です。



ちなみに僕は見てませんが映画もあるそうです。
(って、ひどい紹介ですね・・・)
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2009年01月21日

竜馬がゆく 坂本竜馬はなにがえらいのか?

司馬遼太郎の代表作『竜馬がゆく』について。

11月ぐらいから日本で読み始め、1月8日にベトナムに旅立つ前にはまさか読み終わっているだろうなと目星をつけていましたが、最終巻を読み終わったのはハノイへ行く途中の経由のソウルの空港ででした。

お断りしておきますが、つまらないとか読むのがつらいわけじゃなくて、単純に全8巻だから長いのと、僕の読書スピードが遅すぎるのです。

この小説にトライしたのは2回目ですが、読破したのは初めてです。
最初にトライしたのは、たしか高校生か中学生の時だったと思います。
そのころは司馬遼太郎の『燃えよ剣』とか『項羽と劉邦』とか、剣術、戦闘組織をメインテーマにしたのが好きでした。
『竜馬がゆく』は前半はそんな感じで、竜馬が北辰一刀流の免許皆伝になるまでの剣術話が多く、前者の流れで読めました。

しかし、後半になると竜馬自身剣術に対する興味を失っていくので、そういう話がなくなっていき、若いころの僕もそこらへんで読むのをストップしてしまいました。

今回はさすがにそれから十数年たったので僕の読書力も成長して、後半の維新活動、海援隊の活動、竜馬の国家観にこの小説の魅力があるということがわかりました。

さて、突然ですが坂本竜馬は何がえらいのでしょうか?
僕はそれが昔からわからず、どういうポイントでもって竜馬の小説を読めばいいのかよくわかりませんでした。
たとえば、『燃えよ剣』だったら土方歳三が新撰組という最強組織をいかに作ったか、そして悲劇のヒーローとしていかに函館で散ったかという物語性がよくわかります。

それに引き替え、坂本竜馬ってなにをしたのでしょうか?
@海援隊をつくった
A大政奉還を裏で立案した
B薩長同盟締結

歴史の教科書に記録するとしたらこんなところでしょう。
しかし@にしても海援隊が実際倒幕に役立ったわけではないし、Aにしても竜馬は裏方で、あくまでも大政奉還を決断したのは徳川慶喜です。Bも状況がわからなければ「ふーん、そうなんだ」でおわりそうな話に思えてしまいます。
どうも日本史の教科書の中で竜馬はパッとしないのです。
しかし、名前だけは有名で世の中に竜馬信者はごまんといます。

僕が今回『竜馬がゆく』をちゃんと最後まで読んで思ったのは、竜馬のえらさはやったこと自体にあるのではなくて、彼の思想と調整能力にあるんじゃないかと思いました。

司馬遼太郎が指摘する、竜馬が当時の他の維新志士と比べてすぐれている点は、倒幕後の国家観を明確にもっていたことです。
西郷隆盛など薩摩勢は倒幕の方法論については優れていても、倒幕後の国家観は持っていなかったといいます。むしろ、戦国時代のように、徳川幕府を倒して、次の大名が天下をとるようなイメージでいたそうです。
アメリカの民主主義について独習し、万国公法も理解した竜馬は日本の法治国家観を誰よりも早く構想していました。
それは、竜馬自身が公表したり明治政府の文書にしたりはできませんでしたが、竜馬の影響を受けた薩長土の志士たちが明治政府を作る時の礎にしました。

しかし、僕はこういう政治面は竜馬のいちばんの本質ではないと思います。アメリカを模範とする法治国家論は、留学生が増えるうちに竜馬がいなくてもいつかは形作られていたんじゃないかと思います。

彼の特質で一番すごいのは、利害関係の調整能力です。
たとえば、禁門の変で薩摩軍に大敗した長州は、因縁の薩摩と手を結ぶなどそうそうできません。
しかし、反幕、倒幕ということで薩長の利害は一致しているのです。
竜馬は経済の観点から、薩長の同盟を結ばせようとします。

薩摩は長州を武器や軍事などで支援し、長州は凶作にあえぐ薩摩に米をおくるなど、貸し借り無しの経済関係をうまく誘導し、未来の倒幕共闘のために、経済から過去を止揚させるのです。

この方法論は、現在の中東問題とか、日中歴史観とかそういったものを解決するための唯一の方法論でもあるような気がします。
たとえば、イスラエルもパレスチナ(ハマス)もどっちもお互いを殺戮しているのですから、もう感情的には修復不可能な歴史を抱えていると思います。
それは、竜馬のころの薩長もおなじです。
薩長は倒幕というより大きな目的のために、修復不可能な歴史を超克しました。
イスラエルとパレスチナの問題も本来アメリカが坂本竜馬にならなければならないのです。
それは、経済、すなわち庶民の生活レベルから政治を動かし、利害の関係性を充実させ、より大いなる未来のために過去を止揚するという方法での外部の仲介のことです。

今までのアメリカ大統領はみな中東問題に口をはさむ割には、全面解決に至りませんでした。今回オバマが大統領になって盛り上がっていますが、アメリカが本当に世界平和を志向するのであれば、オバマが坂本竜馬になれるかどうか、そこが注目のポイントかもしれません。

もちろん竜馬は大統領じゃないし、自分が権力になることの危機をよく知っていました。しかし、竜馬の和平仲介方法論は普遍性を帯びているし、いかなる「関係」の考察においても参考にできるものだと思います。

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2009年01月20日

ティファニーで朝食を

ティファニーで朝食を
ティファニーで朝食を posted by (C)hiro

家の近くのカフェであまーいアイスベトナムコーヒー(いつもながら飲みかけの写真ですみません)を飲みながら、トルーマン・カポーティーの『ティファニーで朝食を』を読みました。

去年かおととし読んだので2回目ですが、私この本なんとも好きなんです。
たぶん読んだことがない人は、オードリ・ヘップバーンがかわいいだけのラブ・ロマンスかと思っているかもしれません。
だけど、小説をちゃんと読んでみるととんでもない、たいそうな文学なんですね。

この小説は深読みせずに普通に読むとホリー・ゴライトリーとは何者か?という話です。
ホリーはちゃんと一人でしっかり生きていて、いろんなことを論理的に考えられるんだけど、どこか普通の人とずれています。

飼っていた猫に名前をつけないわりにはとてもかわいがるんだけど、別れるときは潔く別れようとします。

「わたしたちはある日、河のほとりで偶然出くわしただけのことよ。ただそれだけの縁なの。だからお互いどうしようと勝手ってわけさ。なに一つ約束し合ってたわけじゃないんだからね。私たちは一度も―」

といって猫と別れたはいいけど、その後やっぱり未練たっぷり。
でも、このセリフにはしびれるんですね。
「人生」とか「人との出会い」の確信をついているなあと思います。

こういう女の子とは結婚したくないけど、なんだかとっても魅力的。っていうのが、ホリーなのです。

つたない私の紹介ではその魅力はわからないでしょうから、ぜひご一読を!

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